[ Last Update on 2024/05/12 ]

読んでいた本から、ハッとした文章をまとめました
人間が大地から得るエネルギー、われわれはそれを大地に返さなくてはならない。恒久的な往還。エネルギーは、大地と人間のあいだを往来する。
シモーヌ・ヴェイユ「歓び」の思想 鈴木順子(p.229) 藤原書店 2023
わたしの心の目には、はっきり見えた──あの草地がつねに全神経を研ぎ澄まし、草の成長を阻もうとする懸命の努力がゆるむ一瞬に絶えず目を光らせ、おりあらば境界という境界を越えて一気に芽吹こうとひたすら待っている姿が。はっきり見えた──あの草地があたかも巨大な緑の死のごとく頭をもたげ、おのれが食らった腐敗で膨張し、あらゆる境界線を侵蝕し、あらゆる方向に広がり、あらゆる生物を滅ぼして、世界を輝く緑の棺衣で覆いつくし、その棺衣の下で生きとしいけるものが朽ち果てるようすが。戦わねば、戦わねばならない。あの緑の毒と。切り払い、切り倒さなければならない。あの緑の毒を。毎日、毎時間、なにがなんでも。
「草地は緑に輝いて」アンナ・カヴァン pp15-16
文遊社 2020
「モンスターは、美をもっともよく体現した存在であり、私が最も追求したい対象です。すべての人間はモンスターであり、人間を美しくしているのは、私たちのモンスター性、他人の目から隠そうとしている部分なのです。」
「花びらとその他の不穏な物語」グアダルーペ・ネッテル 宇野和美訳 現代書館 2022
訳者あとがきで紹介されている、コスタリカの「セマナリオ・ウニベルシダー」誌(2019年5月28日付)掲載 ネッテル氏のインタビューより(p.140)
カブを植える時、大地に依存するのではなく、宇宙に依存すると見る本能がまだ生きている。しかし古い本能に帰るのではなく、精神医学の観点から見なければならない。化学的・物理学的な構成要素から出発するのではなく、植物の生命、動物の生命にとって重要なものから出発する。
「光の思想家 ルドルフ・シュタイナー」 上松佑二 (p.190) 国書刊行会 2022
彼女にとって世界は世間ではなくファンタジーなのです。この点で彼女は宮沢賢治に非常に近い。彼女の作中人物は世間を超えたところ、あるいはそれからはずれた場所に生きていて、現実という膜を通してもっと永遠なものの相にふれたところがあります。彼女が狐や狸、山や水辺に棲むもろもろのあやかしどもを好んで登場させるのも、この世だけが世界だとは思っていないからです。この世はいつでもあの世に変換されうるので、そういう彼女の世界の多重性・多次元性はむしろ中世文学に近いのかもしれません。
「もうひとつのこの世 石牟礼道子の宇宙」p96 渡辺京二 著 弦書房
彼女は野や山や海に生きる人びとに世界はどのような形と手触りで現れるかということを語っているので、文字=知識が構築する近代的な世界像が決してとらえることのできぬ生活世界における生命の充溢・変幻こそ彼女の文学の主題であるのです。
「もうひとつのこの世 石牟礼道子の宇宙」p94 渡辺京二 著 弦書房
まず自らを知りなさい。自分のアイデンティティーを確立しなさい。他者との差異を認識しなさい。そして自分の考えていること少しでも正確に、体系的に、客観的に表現しなさいと。これは本当に呪いだと思う。だって自分がここにいる存在意味なんて、ほとんどどこにもないわけだから。タマネギの皮むきと同じことです。一貫した自己なんてどこにもないんです
「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」 村上春樹 [p108]
母上様、声をひそめて聞きます。あなたは一度も狂ったことがありませんでしたか?狂ったことがないとおっしゃるなら、伺いたいのです。嫌な人間のうようよいる、この凄まじい世に、どうして狂わずに過ごしてこられましたかと。病院の外の人達は、病院に入ったことがないというだけで、自分も気がつかずに皆少々狂っているのではないでしょうか。
(中略)この世に私は絶対に正常であると言い切れる者がいたら化け物だろうと思います。世に狂人は満ちています。気がつかないだけにそれは誠に危険です。
正気と信じているからこわいのです。私達は自分の狂気を嫌になる程自覚しています。人々は自分の狂気を正しいとして他人に押しつけます。恐ろしいことです。私達から見ればそういう人達は皆怪物です。
髪の花/小林美代子
自然のなかに感知されるすべての神聖なものの顕れを待ちかまえ、それについて書き記すこと。私の仕事は、自然の中に神を見いだすためびいつも注意深くあることだ。神の隠れ家を知り、自然のオラトリオ劇やオペラに立ち会うことである。
「ヘンリー・ソロー 野生の学舎」 今福龍太 (p.32)
山登りなどやめて、家で生活しながらいつでも旅人でいることです。日々の些細な出来事が私たちに教えてくれることで何一つ無駄なものはありません。さんぽの道に散り敷かれた枯葉一枚一枚こそ、私が旅に出て発見しようとしたものでなくて何でしょう。どこまで遠くへ行くと旅したといえるのか、誰にもわからないのです。自分の住処でないどこかにきっと黄金郷があると考えるのは愚かなことに違いありません。
「ヘンリー・ソロー 野生の学舎」 今福龍太 (p.32)
夜はたいていドロシーが〈閲覧室〉の暖炉に火をおこし、ゆらめく光に木の書架が輝くなか、全員がただ静かにそこで過ごした。ルースは編み物をし、ハリエットはぶつぶつ口の中でつぶやきながら戯詩を作り、イーディスはココアに膜が張らないようスプーンでかきまぜた。ディンジーはいつもラグの上に座り、その週いちばんお気に入りの誰かの膝にもたれかかり、ぬくぬくと愛に包まれ、安らいでいた。まさにブライズの言う”神は天におわしまし、世はすべて事もなし”だった。
「七人の司書の館」エレン・クレイジャズ(コドモノセカイ 岸本佐知子編訳 p185)
「頼むよ。君は僕より人あしらいがずっと上手だ。だから頭取にも会うんだろ。僕なんか、頭取と会ったら死ぬよ。その場で死ぬよ。死ぬか気がちがうか、どっちかだ。ところが君はそういう人とも話ができる。だから、ああいう人とも話せるだろ。頼む、うまいこと言って追い返してくれ」
『記憶の盆おどり (Kindle Single)』(町田 康 著)
わたしは文学を信じています。人をひとつにし、わたしたちがみなすごく似ていることを教えてくれる文学を。わたしたちが見えない脅威によってつながっているという事実に気づかせてくれる文学を。世界を、生きたひとつの全体であるかのように語る、それがわたしたちの眼前でたえず発展しつづけていて、そこに暮らすわたしたちが、ほんのちいさな、でもそれと同時に力強いその一部なんだと語る文学を。
「プラヴィエクとそのほかの時代」(p.366) オルガ・トカルチュク 小椋彩=訳 (訳者あとがき ノーベル賞受賞直後のトカルチェクのコメントより)
「自分でもぞっとするほど冴えた状態になることがあるんだ。自然をとても美しく感じられるここ数日は、もはや自分が自分であるということさえ意識しなくなる。そしてまるで夢でみたかのように、絵のほうがぼくのところへやってくるんだよ。」そして有頂天になった彼は声をあげる。「人生は行きつくところ、ほとんど魔法をかけられたようなものなんだ。」
「フィンセント・ファン・ゴッホの思い出」(p.147) ヨー・ファン・ゴッホ=ボンゲル 著 マーティン・ゲイフォード 解説 林卓行 監訳 吉川真理子 訳 東京書籍
天気や、育ち方や、そんなものの流れで世話をして、それにだいたい畑は七割くらい応えてくれるから、ちょうどいい喜びがやってくる。十割を求めているのに七割から九割の間だから、偶然のいい香りもしてきて、嘆きもほどよくあって、ちょうどいい気持ちになる。贈りものみたいな感じになる。それがゼロでもまた来年がある。生きていたらまた来年があるし、来年まで休んだりもできる。
「鳥たち」よしもとばなな (pp125-126) 集英社文庫
人生が全部自分の気持ちや目標だけでできていたら息苦しくて生きていけないし、どんなエピソードも入ってきてはくれない。半分は向こうから来てくれるから、それに反応することでものごとが動いて、人はなんとか生きていけるのだ。
「鳥たち」よしもとばなな (pp125-126) 集英社文庫
陶器を、あるいは彫像をつくるとき、私は自分自身をつくっている。土を耕しているとき、あなたはあなた自身を耕している。畑で作物を育てているとき、私たちは自分のうちに忍耐を育てている。うちなるアートと外なるアートは、同じひとつの現実のふたつの側面にすぎない。
「エレガント・シンプリシティ」サティシュ・クマール / 辻信一 訳 (NHK出版 p.58)
「それはもうひどい夢なの。すごく蜘蛛っぽくて。生まれてこの方、こんなに蜘蛛っぽい悪夢を見たことってなかったな」
「フラニーとズーイ」J.D.サリンジャー / 村上春樹 訳 新潮文庫 (p.181)
あねさん、魚は天のくれらすもんでござす。天のくれらすもんを、ただで、わが要ると思うしことって、その日を暮らす。
「苦海浄土」石牟礼道子 世界文学全集 Ⅲ-04 (p123)
これより上の栄華のどこにゆけばあろうかい。
「僕は知っているんだ。愛とはね、嘘を信じ、嘘を生きることさ。あえていえば、狂気を生きることさ。残念ながら、僕にはそんな趣味も勇気もない。僕には、僕がだれとも融けあわない一つの核をもっていること、これを信じる勇気しかない。そこからしか、なにもはじめられないんだ」
「軍国歌謡集」山川方夫|畳 (百年文庫)
”芸って奴はな、所詮一人々々の魂の中に別々に活きてかがやくものなんだ。お前はお前でなけりゃいけねえ。忘れても俺の芸の皮なんぞ真似しなさんな。そうして取るなら俺の・・・・・・俺の肉の方を根こそぎ取って。分ったか。なあ、万之助さん分かったなあ」
正岡容「置き土産」秋 (百年文庫)
「・・・・・・」”
「ぼくが言おうとしたのは―種子のなかには、種子という究極の原子のなかには、それが大地にまかれるとき、種子はもはや物質ではなくなり、魂のようなもの、エネルギーというか、一種の生命というか、精神と物質との中間のようなものになる瞬間があって、種子が成長しはじめるその変形の瞬間をとらえ、その変化を理解することができたら―――」
「大地」パール・バック 河出書房
あまりにも人間を恐怖している人たちは、かえって、もっともっと、おそろしい妖怪を確実にこの目で見たいと願望するに至る心理、神経質な、ものにおびえ易い人ほど、暴風雨の更に強からん事を祈る心理、ああ、この一群の画家たちは、人間という化け物に傷めつけられ、おびやかされた揚句の果、ついに幻影を信じ、白昼の自然の中に、ありありと妖怪を見たのだ、しかも彼等は、それを道化などでごまかさず、見えたままの表現に努力したのだ、竹一の言うように、敢然と「お化けの絵」をかいてしまったのだ、ここに将来の自分の、仲間がいる、と自分は、涙が出たほどに興奮し、
「人間失格」太宰治
「僕も画くよ。お化けの絵を画くよ。地獄の馬を、画くよ。」
と、なぜだか、ひどく声をひそめて、竹一に言ったのでした。
「この世界には、夏や秋や春にはくらす場所をもたないものが、いろいろといるのよ。みんな、とっても内気で、すこしかわりものなの。ある種の夜のけものとか、ほかの人たちとはうまくつきあっていけない人とか、だれもそんなものがいるなんて、思いもしない生きものとかね。その人たちは、一年じゅう、どこかにこっそりとかくれているの。そうして、あたりがひっそりとして、なにもかもが雪にうずまり、夜が長くなって、たいていのものが冬のねむりにおちたときになると、やっとでてくるのよ。」
「ムーミン谷の冬」トーベ・ヤンソン (p.67)
「美は、この世で最も貴重な物だ。浜辺に転がっている石ころとは違う。通りがかりの人が何気なく拾い上げるようなものじゃない。美というのはね、不思議ですばらしいもの、芸術家が心で苦しみ抜いて、この世の混沌の中から生み出すものなんだよ。でもね、生み出されたからと言って、誰もが見て、すぐに美だとわかるわけじゃない。それが美だと分かるためには、芸術家の苦しみを自分の心でも繰り返さなくちゃ・・・・・・。美は、芸術家が君に歌ってくれるメロディだ。それを自分の心でもう一度聞くためには、知恵と感性と想像力がいる」
「月と6ペンス」モーム / 土屋政雄訳 光文社古典新訳文庫
ああ、弟も苦しいのだろう。しかも、途がふさがって、何をどうすればいいのか、いまだに何もわかっていないのだろう。ただ、毎日、死ぬ気でお酒を飲んでいるのだろう。
太宰治「斜陽」
いっそ思い切って、本職の不良になってしまったらどうだろう。そうすると、弟もかえって楽になるのではあるまいか。
不良でない人間があるだろうか、とあのノートブックに書かれていたけれども、そう言われてみると、私だって不良、叔父さまも不良、お母さまだって、不良みたいに思われて来る。
不良とは、優しさの事ではないかしら。
俺は画家になる。美を基礎づけるために哲学をする。単に絵だけを書くのでは不安でたまらん。
俺は哲学者になる。だが画家だ。あくまでも画家だ。
荒俣宏 水木しげる「戦争と読書」/第一章 水木しげる出生前手記
植物にしても昆虫にしても動物にしても、全ての自然界の生き物はある日とつぜん生まれ、本能だけを頼りに短い生涯をただ生き、言葉など一言も発さずに死んでいく、その様を自分自身の目で見て、腹に落としてさえおけば、これからの人生で否応なく巻き込まれてしまう経済の論理や権力による抑圧、競争といった理不尽のなかにあっても、孤独を貫き通すことができる、一人で生きることを過度に怖れなくて済む。
「電車道」磯崎憲一郎(p.100)
人間は進歩しすぎて地球を壊しているのではなくて、未熟すぎて問題を起こしている。
坂本龍一・竹村真一「地球を聴く 3.11後をめぐる対話」
いずれにせよ、書くという行為もまた、他のさまざまな人間的営為と同じく、私たちの外部にある強い力を受け入れ、それをある限りの技術を以て制御し、人間世界において価値あるものに変換し、物質化するプロセスなのです。
『もう一度村上春樹にご用心』韓国語版序文 (内田樹の研究室)
元来私が詩を書くのは実にやむを得ない心的衝動から来るので、一種の電磁力鬱積のエネルギー放出に外ならず、実はそれが果して人のいう詩と同じものであるかどうかさえ今では自己に向って確言出来ないとも思える時があります。
詩について語らず──編集子への手紙──高村光太郎
祈るとは自分勝手な願いを神に向かって訴えることではない。祈るとは、自分は何をすべきなのか、それを伝える神の声を聞こうと耳を澄ますことである。教えを乞うことである。自分は斧なのか、槌なのか、あるいは水準器なのか、それを教えてほしい。それがわかれば、神意のままに身を粉にして働くことができる。


