
没後50年神田日勝大地への筆触ここで描く、ここで生きる 北海道立近代美術館
*
神田日勝の絵に初めて出会ったのは、20代のはじめ、バイト先の花屋でのことだった。
市場から仕入れ、水揚げ処理のされた切り花の束を、最後に新聞紙で包んで仕舞うのが毎週月曜日のわたしの仕事で、その日もいつものように作業台に新聞紙を広げていた。
ひと束をくるりと包み、ガムテープで止めて、ポリバケツに差し込む。そして次のひと束を置こうとしたときにはたと手が止まった。
見開きの新聞紙に「日本のミレー」と題された画家についての記事。
半分で途切れた馬、2人の男がごろりと横になる飯場の風景。
特に絶筆である「馬」には打たれたようになり、記事を切り抜いて持ち帰った。いつか北海道の日勝の美術館に、あの絶筆の「馬」を見に行こう、と岩手もろくにでない出不精の私は、なかば来世への希望みたいに小さな決意をしたのだった。
そして10年後の今年10月、北海道を訪れる機会が巡って来た。
行き先は十勝・本別。
広大な北海道の中で、奇しくも神田日勝が8歳から32歳で亡くなるまでを暮らした鹿追町から車で1時間ほどの場所。
しかし、今年は神田日勝没後50年ということで、札幌の北海道立近代美術館での特別展でほとんどの作品が展示されている。
その上、滞在日程の前後にとった移動日はどちらも月曜日で美術館は休館。なんだかついてないなぁ、とため息をついた。
*
今回訪れた本別町のソフィア・ファーム・コミュニティは、日本ではまだ数少ないバイオダイナミック・ファームだ。
バイオダイナミック農法(以下BD農法)は、ドイツの哲学者/科学者のR.シュタイナーが1924年に行った農民への講義から生まれた。
BD農場は、畑・森・植物・動物・土壌・堆肥・人、そしてその場所のスピリットなどが、お互いに影響を与え合いながら一つの生命体としてホリスティックに息づいている。
このBD農法で使う”プレパラート”(調剤)をつくるための講座に、5泊6日で参加を決めたのだった。
講座初日につくった調剤は、カシの木の樹皮を牛や豚など動物の頭蓋骨につめて、春まで土の中に埋めておく”調合剤505番”と呼ばれるもの。
この調剤は生きたカルシウムを土壌にあたえ、長い時間をかけてph値を上げてくれるそうだ。
なぜ頭蓋骨を使うかをシュタイナーは述べていないということだけれど、”カルシウムの状態を整えるために、骨のような、カルシウムでできた「器」に樹皮を入れる”のだそうだ。
この頭蓋骨に触れているうちに、「神田日勝を見に行かなければ」という思いが首をもたげ、どんどん大きくなっていった。
彼の描いた、牛や馬の絵が見たくなった。講座の中で1日だけ調剤づくりのない日があったので、無理を言ってバス停に送迎をしていただき、札幌まで行く事を決めた。
*
神田日勝は1937年、東京都練馬区に生まれた。 1945年の東京大空襲で焼け野原と化した東京を離れ、一家で北海道に疎開をする。
そして政府によって進められていた”戦災者集団帰農計画”のもと、”開北農兵隊”に志願し鹿追町に入植をすることになる。
落ち着く場所が決まったとはいえ、待ち受けていたのは厳しい環境だった。
1945年8月14日に入植した次の日に日本は敗戦し、農兵隊の当初の条件であった既墾地の貸付や農機具の給付は行われず、神田一家に与えられたのは石が転がり木々も生い茂る、他の開墾者が逃げ出した荒地だったという。
中学を卒業すると同時に、家業の農業を継いだ日勝。
卒業時には、特に美術に優れていたということで異例の賞をもらったという。
そして農作業のかたわら絵を描き続け、1956年に19歳で公募展初出品・初入賞し画壇デビューを果たした。
それから32歳で亡くなるまで、彼は鹿追町で農民として働き、ベニヤ板に向かい描き続けた。
*
「人」と題された、初期の人物画がある。初期作品の特徴であるこげ茶色のモノクローム・坊主頭・誇張された手足。
1962年、日勝が25歳の時の作品だ。

肉体労働者であろうこの「人」は床に足を投げ出し、何を考えているのか、何も見えていないのか、うつろな目をしている。
ゴツゴツと節くれ立った手も足も、日々の厳しい仕事を物語っている。北海道立近代美術館の、この絵の前に立って男の手を眺めていた時に、何か頭の隅に思い出されるものがあった。
手だ、この手はどこかで・・・思い当たったのは、宮沢賢治の「春と修羅」の一節だった。
陽が照って鳥が啼きあちこちの楢の林も、けむるときぎちぎちと鳴る 汚ない掌を、おれはこれからもつことになる
「春と修羅」宮沢賢治
日勝の「人」に描かれた男の掌は、まさに”ぎちぎちと鳴る”のだろう。
亡くなった祖父もこんな手を持つ人だった。
自分の身にかかる物事に、常に自分の身体で、手足で当たって行く。
日々の生活がつくりあげる”稼ぎ人の手”だ。
このときわたしの中で、日勝と賢治とが出会った。
開拓農民として幼少期から農業を生活の糧としてきた日勝と、農学校の教師を経て羅須地人協会を設立し農民と語らって来た賢治。
生年に40年ほどの開きはあるものの、北海道と岩手という土地に根ざし、農業と芸術を生業にして生涯を送った。そしてふたりとも、30代の若さで夭折している。
美術史学者の堀尾真紀子さんが書かれた「画家たちの原風景」の中で、日勝の友人が保管していた手紙の内容が紹介されている。
「••••••人間というもの、そういう身勝手なところがあって、そしてほとんどが己れの身勝手さに気づかず晴れ晴れと生きているのとはちがいますか。僕はむしろ人間のそういう身勝手さとか、狡猾さとか、残忍さとかいやらしい面を見たとき、不思議と安堵に似た気持になります。ああ••••••ここに人間が居た••••••と感じるのです。〔後略〕」
高橋悦子宛書簡より「画家たちの原風景」堀尾真紀子 p.47
そして別の手紙では、ある地方展を見たときの感想として、以下のように綴られている。
「彼等にとって生きることと絵を描くことがどんなかかわりあいを持っているのか••••••があいまいなところでほったらかされているような気がするのです。〔中略〕どうでもいい事にばかり一生懸命になっていて、どうも考えの軽薄さや卑しさやまずしさが目について仕方がないのです。それは自身が卑しくまずしく軽薄だから、ひとのそれらが手に取るようによく解るのかもしれません。本当にゆたかな人間と言うものは案外他人の弱点に気づかないものかもしれないとも思います」
高橋悦子宛書簡より「画家たちの原風景」堀尾真紀子 p.48
そこには今までわたしが日勝に持っていた印象とは違う、鋭い言葉が並んでいた。
そしてその言葉はいつも、日勝自身に向けられているように感じられる。
真面目に仕事をし、絵が好きで、家族を大切にし、人当たりも良さそうな人物と思っていたが、そんなに単純な人ではなかったのだ。
堀尾真紀子著「画家たちの原風景」には、このような作家高橋揆一郎の言葉が引かれている。
「この人の心の中には、世俗と全く離れた鬼が住んでいる。それと闘っている。それは意志ではなくて運命的なものだ。〔中略〕そうすると、自分が孤高になっているんじゃないか、仲間はずれになるんじゃないかという不安がつきまとい、だから外面的には非常に付き合いがいい。〔後略〕」
作家高橋揆一郎のことば 「画家たちの原風景」堀尾真紀子 p.16
ここでまた、日勝と賢治の重なりが見えた気がした。それは「春と修羅」の中の有名な一節によるものだった。
〔中略〕
いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾つばきし はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
(風景はなみだにゆすれ)〔後略〕
「春と修羅」宮沢賢治
高橋揆一郎が論ずる”世俗と全く離れた鬼”である日勝と、自らを”ひとりの修羅”だという賢治がオーバーラップする。
高橋の言う”それは意志ではなくて運命的なものだ”というあり方は、賢治にも当てはまるだろう。
宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」に描かれた”デクノボー”は、賢治自身の理想の姿だったのだろう。
宮沢賢治の代表作として取り上げられることの多いこの作品はしかし、詩作品ではなくただ賢治の心からの願いに思われてならない。
1931年、東北採石工場で技師として奔走する中で倒れた賢治は、花巻の自宅に戻り病臥生活となった。「雨ニモ負ケズ」はそのすぐ後に書かれているにも関わらず、「サウイフモノニワタシハナリタイ」と現在形で締めくくられている。
これは裏返してみると「どうしてもそういう者にはなれなかった」がために現れて出た言葉のようにも思えてくる。
*
1970年、日勝が亡くなる年に描きあげられた「室内風景」。これもベニヤ板を貼り合わせて描かれた、人の背丈を軽々とこえる大作だ。

新聞紙が貼りめぐらされた空間に、男が一人うずくまっている。
セーターにズボンという服装、寒いのか両手は組まれているが、覗いた素足が冷え冷えとする。
ぶらさげられた裸電球は灯されておらず、床にはりんごの皮や人形、マッチ箱など生活雑貨がならび、みんなそっぽを向いているようにも見える。
男の顔はまっすぐにこちらに向けられているが、どうしても視線は合わない。
何だか不気味な絵だな、と感じると同時になにかホッとする不思議な安心感があった。
日勝と賢治が感じていた己れの卑小さ、みにくさは、彼ら個人のものではなく、わたしたち人間のうちに必ず潜んでいるもので、それをこの2人は、自らのものとして生きたのではないだろうか。
その上で人間としての理想を仰ぎみるとき、その卑小さとの間で引き裂かれる事になる。
そういう者のことを”修羅”と呼ぶのではないか。
日勝の「室内風景」はそんな”鬼”であり”修羅”である自らのポートレートだったのかもしれない、などと勝手に思っている。
*
我が家の玄関には今、日勝の絶筆「馬」が飾られている。
わずかに紫の光をおびたつやつやとした馬の目は、どこでもない場所から斜にこちらをとらえているようだ。
この馬のいるところに、いつかわたしも行くだろう。
それまではただここにいる。ただそれだけなのだ、と思う。
【参考図書・web】
・画家たちの原風景「日曜美術館」が問いかけたもの 堀尾真紀子
・神田日勝特別展 北の大地から-馬と歩んだ画業 馬の博物館
・神田日勝 – Wikipedia
・「イラクサをつかめ」ピーター・プロクターホメオパシー出版
・「雨ニモ負ケズ」宮沢賢治 青空文庫「春と修羅」宮沢賢治 青空文庫


Be First to Comment